Tomomi Imai

MemberShimayui-jin 島結人Tomomi Imai島結人-コーディネーター

こんにちは!

代表という名の言い出しっぺ、ともみんこと今井です。

前回は「離島移住計画を立ち上げた経緯」を書いてみましたが、今回は”そもそも私がどんなひとか”ってことで、自己紹介します!

どう書こうかなと思いましたが、せっかくなんで赤裸々に。

東京生まれ、千葉育ちの東京出戻り。

東京・江戸川で生まれました。

お父さんは愛媛出身。

お母さんは秋田出身。

転勤族で江戸川からすぐ→四街道→最終的に木更津へ。

なので、思春期はずっと木更津におりました。

で、大学入学とともに東京にカムバック。

そこから今に至ります。

万年文化部。オーケストラ・吹奏楽の日々。自治会で和太鼓も叩いてました。

なので実は人生にスポーツの要素が一切ありませんw

おとなが好きなこども時代。

私は、勉強が好き、と言うか、おとなが好きでした。

言葉を知ると、おとなの言葉が理解できるようになるし、そうなるとおとなは裏話を聞かせてくれたり。

その代表は、親。

毎日しこたま話していました。

実は私、”こどもらしい” ”女の子らしい”遊びが苦手。

親の育児の方針で男っぽかったり、こどもが多かったせいもあるのか、こどもの世界にいろんなコミュニティがあって、独特の謎のヒエラルキーに飲み込まれたりして、面倒くさいなって感じで。

結局、同年代と話しが合わないので、大人とばかり話す日々。

当時、一番好きだった大人は、オペラ歌手の叔母でした。

簡単に言うと、”ぶっ飛んで”ました。

イタリア語もスペイン語も英語も話すし、薔薇くさいし、いきなり歌い出すと家揺れるし。

少5の時、遠足をなぜかキャンセルされ、半強制的に彼女と行ったイタリア・スペイン。

歌い続ける旅。

どこかしこでも歌い出す叔母のキャラバン。

それに乗ってくる人々。

そのセッション感と衝動・熱。上手・下手を超えた関係。能力ではなく、シンパシー。

この感覚を味わってしまったからこそ、より早熟。

おとながこどもに押し付ける”こどもらしさ”は、あっという間に吹っ飛んでしまったのでした。

私の今のベースは、結局この頃に作られたように思います。

絶対海外にすむ!音楽をやる!

若き日の私の夢はこれでした。

人の人生をモチベーションにしていた20代。

そんな感じで、結構おとななこどもとして育っていた頃に、父親が病気に。

看病もしつつ、優等生ではありたいととにかく全てを両立しまくる日々。

「お父さんを治すために医者になりたい!そのためにドイツへ行く!」と言い出すものの、高3の時に父親が亡くなってしまい、夢を砕かれます。

当時の先生たちに、ならばと勧められて夜間の大学を紹介してもらって、弟たちのことを考えて昼は働き、夜は学校に通う。

こんな日々を7年ほど続けていました。

モチベーションは「母が誇れる人間になる」。

そう思って邁進。

の割には反動で、休みになれば海外に飛び出して行く日々。

もしくは自分でイベントなんぞ打ってみたり。ライブペイントとかやってみたり。

25歳の頃ふと、「私の人生って誰のためにあるんだろう?」と思うようになり、もっと世界を広げつつ、もっと自由に学べて経験できる生き方がしたいと思った頃、当時お世話になってた人からフリーランスという働きかたを教えてもらい、独立します。

作った肩書きは「つなぐひと」。

特別なスキルのない私にできることは、モノコトヒトをとにかく繋いできっかけを作ること。

つなぐことで流れる水脈がある。

と一念発起して、気づけば早5年が経ちました。

私の人生を生きたくなった20代の末。

独立とほぼ同時に結婚した私。

いつかできる自分のこどもにちゃんと時間が割けるように自分で時間をコントロールしたい。

たまたまそのころに卵巣嚢腫で手術することになった自分の体をいたわりながら生きたい。

そう思って早い段階から”育児”や”女性の働き方”などを勉強していました。

あれだけ海外思考だったものの、旦那さんと歩む日々を考えたら、東京で自分の居場所を作らなきゃ。

そうして作ったのがViBARというカフェ(現在も押上にあります)。

アートや音楽盛りだくさんの実験の場。

毎日いろんな人といろんな空間を作り出す日々。

とっても最高でした。

でも、頑張りすぎて、旦那さんはお手上げ。残念ながら後にお別れする羽目に。

あれ、私って、じゃあなんのために生きてきたんだっけ?

この時初めてじっくり考えさせられました。

人の人生を生きるためだっけ?

当時28歳。

生き方をもう一回見直したら、自分の人生を生きたいとはっきり思うようになりました。

自分の人生って?

そう自問自答する日々の中で、強く思うようになったのが

安心して帰れるホームが欲しい

これでした。

もう日本にないのかもしれない。

憧れのNZに行ってしまおうか。

そんな時に出会ったのが、移住計画と硫黄島でした。

硫黄島との出会いから2年後、竹島の晋作に出会った29歳。

ViBAR時代に、島っていいよね〜なんて雑談の中で友人がふと紹介してくれた「硫黄島」。

どうやら、音楽で活性化されている野性味溢れる島が面白い移住募集しているみたいだよと、A4の1枚の紙を手渡され、物は試しと問い合わせてみるも、「空き家がないので無理です」と、粉砕。

当時、奄美や加計呂麻の友人を尋ねたり、佐渡島へアジアン雑貨店として出店しに行ったりと、島とはじわーっと関わっていた私でしたが、縁はないのだなと思っていました。

そんな矢先に、鹿児島の友人とこの話をしていたら「今日、その村の人渋谷にいますよ!」と言われて、ヨガ終わりの素敵な休日にそれならと立ち寄った「まちてん」。

ここにいたのが、離島アドバイザーとしてジョインしてくれている晋作でした。

移住ドラフト会議で1位指名。

そうして初めて訪れた硫黄島で心奪われた。

なぜか渋谷のど真ん中で、筍を宣伝する彼が誘ってくれた「鹿児島移住ドラフト会議」。

そこで三島村から1位指名を受け、翌日初めて訪れた硫黄島。

完全に心を奪われましたね。

なにこれと。

硫黄岳による生命力。

そこに住む人々が演奏するアフリカンミュージック。

鳩のノリでいる孔雀。

この圧倒的に”生きてる”存在に出会って初めて「あ〜帰ってきた!」と思ったんです。

家族がいたり、伝統工芸があったり、古民家があったり、美味しいご飯があったり。

もちろんそれも大事な要素だけれど、私にとってのホーム感はこの

「なんでも受け入れてくれそうなとんでもない生命力と人々」

島が教えてくれたのは、それでした。

まだたかが30年ちょっとの人生ですが、そこそこ波乱万丈に生きてきた私にとって、この圧倒的な存在感に、なんとくなく救ってもらった気がしたのがその時。

硫黄島が見える竹の島、竹島の人口は73人。

潔さを教えてくれた島という暮らし。

そうして、繋いでくれた晋作のいる竹島にも行ってみたら、彼が正真正銘の島人だとようやくわかりました。

当時店もまともな自動販売機もない、70人程度しかいない島。

船は週4便。欠航も少なくない。

そこへUターンして、もりつきもして、魚もさばいて、NPOもやって盛り上げようとしている友人。
そこにずっと住み続けて、島につく船を繋いでくれるそのまた友人。

何万人もいる大都市で、あーだこーだ言いながら生まれ育ってきた私には、こんなにもシンプルで各々の役割がちゃんとある世界で生きている彼らがとても羨ましく見えました。

で、そこで気づかされたのが「もっと今という人生に潔くなろう」ということ。

なにがあるとか、なにがないとか、遠い夢とか大きな展望とか、そういうことを考えるのもいいけれど、過去になにがあったとかそういうのもいいけれど、まずは何よりそこに今存在しているアレコレをまず受け止めてみる。

どうしようもないこともそのまま受け入れる。

すると、いるものいらないものが見えてくる。

そうして削ぎ落とされてきて、人生って磨きがかかってくるみたい。

自分を身軽にする。

「潔く」

私が島から教わったのは、これ。

そんな暮らしをもっとしたい。

移住してみたい。

そうして、同じ村の別の島へ移住申請するという、なんとも不思議な巡り合わせになるのでした。

島をもっと知りたいから、離島移住計画。

そんな私が移住計画を立ち上げた理由は2つ。

1つは、「私自身が移住を計画しているから」

もう一つは、「仲間たちと地域という枠組みを超えて関わっていきたいから」

私が何かを教えてやろうとか、そういう理由は一切ないんです。

むしろ逆。

教えて欲しいし、なんなら一緒に学んでいこう

そんな気持ちで立ち上げました。

島に移住しよう!と関われば関わるほど、そこにいる人々が好きなって。

島に関わる人たちの島への愛も知って。

同時に島にいるからこその悩みも知って。

もっと島の人や島に関わる人たちがお互いを知って仲間になっていけないだろうか

そのために私たちが”つなぐひと”となっていく。

そうして、1つの島だけじゃなくって、いろんな島に心が帰れたらいいな

私のように、何か悶々としてきた人たちこそ、帰れる場が島で、私と同じように何か救われて、自分の人生を好きになって欲しい。

でも急がずコツコツ、手と手を取り合っていきたい。

私はどこまで行ってもヨソモノ。

だからこそ、遠慮なくこの島が、この人が、このモノコトが好き!いいね!と、胸を張って”結って”いきたい。

みんなが、自分の人生に潔くなって欲しいから、そんなお手伝いができたらと、そう思っている日々です。

もちろん島好きも大歓迎です。

旅人の一歩先、暮らしの手前の手立てを探している人たちとじっくり時間をかけて歩んでいけたらなと、そう思っています。